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「徒然なるままに 女医人生」

さかきばらクリニック
榊原 映枝 先生
(神奈川区)

  薄紫色の雨雲のたちこめる梅雨の朝、最愛の人は逝ってしまった。2006年7月のことだった。当時浪人中の長男と高校1年生の次男、開業して10年のクリニックには10数人のスタッフを抱えていた。考える力を失った私は茫然と立ち尽くし魂の抜け殻として、只々、ルーチンワークをこなし、機械仕掛けの人形のように働くしかなかった。医学部の教官時代の長かった夫は未来を見通すことのできる人で私のシンクタンク、医者の仕事が好きで好きでたまらない私のことをいつも目を細めて見守ってくれていた。私は医者さえしていれば、経営や人事、様々な交渉とは無縁、夫に頼りきりだった。突然、何の覚悟もないまま、たった1人、荒海に放り出された、そんな私だった。
 
 私が進路を選択する際に医者以外で迷った職業は唯一、弁護士だった。アメリカの企業にいた父の口癖は、日本で女性が自立して生きていくにはプロフェッショナルになる以外ない、というものだった。理系文系の進路分けの時、仲間と医者になるか、弁護士になるかよく議論したものだった。皆、プロフェッショナルとして生きていきたい連中ばかりだった。国立大学の附属校は男女比が均等なので、女子が幅を利かせる傾向にあった。その中で、元々数学大好き少女の私は、小学校時代からの憧れであった、医者の道を選んだ。
 自立した人生を設計したい私は、女性だからと馬鹿にされない、有能な医者になるための努力を惜しまなかった。私の母校は当時、100人の学年で女子は5人、あいうえお順で私のクラスは女子学生、私1人という状況であり、女子は全学年の男子から注目されるというありがた迷惑な環境だった。家庭教師のバイトと部活、実習に明け暮れる日々の中、とても親切にしてくれる男子が何人かおり、そのうちの1人が、夫だった。
 
 紆余曲折の末、私たちは結婚した。研修医の終わる頃だった。夫は、教授から将来を嘱望されており、医局で初めてストレートで大学院に進んでいた。従って、経済的には私が頑張ることになり、この頃、培われた勤労体質は今につながっていると思われる。医者になってもまだ女子だからと馬鹿にされたくない私は、技術習得に血道をあげており、内視鏡専門医となるべく精進した。長男を妊娠中、悪阻の酷い時期にも内視鏡当番を休むことなく、青ざめた顔で仕事を続けていた私を看護婦さんたちが気遣い、支えてくれたのは本当にありがたかった。
 
 夫が文部省の若手研究者海外派遣要員に選ばれ、私たち親子は、南カリフォルニアへ移ることになった。ちょうど内視鏡学会のシンポジストを仰せつかっており、私は、太平洋を二歳児と2人、旅する羽目になった。父の配慮で乗ったことのないビジネスクラスに座り、そのために長男はオレンジジュースの飲み放題に嵌って、フライトの大半は、オレンジ色の吐物処理班となった。
 
 留学の成果は色々あったが、一番はアメリカ国籍の次男であった。残務整理中の夫を残し、私は、五歳にならんとする暴れん坊長男と泣くのが仕事の次男を担ぎ、再び太平洋を渡った。成田空港へ迎えに来てくれた母は、疲れ果てた私を見て、難民のようだと笑った。
 
 子育てはとてもエネルギーがいる。根気もいる。でもやってみないとわからないことが沢山ある。筆舌に尽くしがたい苦労の後、回り道の末、この春ようやく、我が家に4番目の医者が誕生する。苦労を共にした夫と喜びを分かち合いたい時、私は一番困る。辛い時に、涙せずに一人で歯を食いしばる癖のついてしまった私は、嬉しい時、ひたすら夫に話しかけながらとめどもなく涙するしかない。
 
 今のところ後を継いでくれそうな息子たちに、走り続けた私の人生にもようやく、ゆとりが生まれそうな気がする。もしまた、このコーナーにお呼びがかかった折には、是非ともこの続きの素敵な趣味の話をさせて頂ければ幸いです。

          
             榊原映枝 先生(写真中央)とさかきばらクリニックのスタッフ