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「女医としての五十年」

遠藤クリニック
前院長 遠藤 美穂子先生
(磯子区)

 
 あれは五歳の時であった。兄がアッペ穿孔腹膜炎で、顔面蒼白、譫言を呈して緊急入院した外科病院での、女医さんとの出会いである。白衣を靡かせながら陽の注ぐ広い廊下を颯爽と歩き、「バリバリやるから」と檄を飛ばす姿の頼もしさ、格好よさは、七十年余過ぎた今も鮮烈に記憶している。抗生物質も無いあの時代によくも全快に導いてくれたものと感嘆している。そして高校二年時に、大好きな父が、粟粒結核で逝ってしまった。上記は、私が医師を目指した大きなきっかけになったと思われる。
 入学した横浜市立大学医学部は、一学年定員四十名、女子学生は三名で、代返がきかないことは不便であったが、先生方には可愛がられ、三人揃ってお茶をご馳走になったりもした。
 インターン時代、医局時代と女性を特に意識することもなくやって来た。特に医局時代が懐かしい。横浜市大精神神経科の猪瀬正教授は父のような存在であり、医局員は兄弟以上の親密さでつながっていた。私の研究テーマ「SLEの精神神経症状」については、医局の先輩後輩に多大な支援を頂き有難かった。また、病棟の看護師さんから市大HP看護婦寮の飲み会に一人招かれ盛り上がったのも楽しい思い出である。男性の医局員には羨ましがられた。
 「大学病院と民間精神病院の患者さんの違い、それを勉強すること」との教授の御意向で週一泊一日の民間病院への出向があった。当時県内の官公立の精神科ベットは市大と芹香院の二ヶ所きりなく、民間精神病院が患者さんの入院の殆どに対応していた。県内の精神病院御三家の中の某病院に初出勤した際、そこの看護婦さん達が「新米の女医が来たらシゴイテヤロウ」と、手ぐすね引いていたこと、初対面の私が各病棟に挨拶に行く都度、「いろいろと教えてください、お願いします。」と言ったことで、手ぐすねが消えた事は後に知った。
 勤務医時代に結婚出産した。仕事を終えて帰宅後の育児、家事は十二時には終わったが、夫(公団職員)の帰宅はしばしば翌日の二時過ぎ。私の当直日は預け先の家が子供を泊めてくれたのが本当に有難かった。その家では我が子のように可愛がって下さり感謝の思いが尽きない。
 開業を思い立ったのは、出勤日数増加の願いを、出向先の院長に断られたことにある。これは当然のことと私は考えた。(夜半の洗濯物の外干しで)切迫早産での入院と、産前産後の休職で病院に迷惑をかけたこと、次に第二子出産の可能性も院長は予想したであろうから。
 そこで開業を思い立ち、成人病センターでの内科研修、国立横浜病院での小児科研修を始めた。しかし、「育児しながら仕事ができる」と考えたのは大きな誤算であった。金策、土地購入、建築、器材の購入、役所との折衝を経て、待ち受けていたのは限りない雑務
(経理、経営、保険業務他)であり、就中人事には神経を使い解雇の難しさも実感した。加えて私自身が保険医療事務のイロハも知らず、当初は窓口負担額を一々旧知の病院事務の方に電話して教わっていた。医療事務講座卒の窓口事務担当者は全く役に立たなかった。
 専門の精神神経学と共に内科と小児科の勉強を懸命に続け、毎夜電話機を抱いて寝て夜間の電話に対応したり、時に往診もして、ニアミスもなく四十年過ごせたことに感謝したい。
 男の世界も若干垣間見て来て、家事、育児、母の介護と在宅看取りなど女の世界も経験していることは、女医として臨床上のメリットが大きかったと思う。厚生労働大臣賞受賞も励みになった。
 これも先輩女医の方々が、男尊女卑の世の中で、並々ならぬご努力をなされたお蔭と、敬意と感謝を捧げるものである。
 好きな勉強、やり甲斐のある仕事をし続けて五十年余過ごせた事は、まことに有難いことと、全てに感謝の念を捧げる次第である。

          
                    遠藤クリニック外観