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新教育制度下で-7人の女子-

三杉 信子先生
三杉 信子先生

 1945年、日本の敗戦の年から2年後に小学校から大学まで新しい教育制度が作られて、それまで男女別々の教育が現在の共学になったのをご存知でしょうか。
 男子のみ入学可能であった国公立の医学部に女子も入学できるようになり、私が入学したのは横浜市立大学に女子学生を受け入れてから5年目でした。地方の高校でしたから受験勉強も自己流で一浪して医学生となりました。
8人の子のうち4人を化学療法がまだ行われていない時期に結核で失った両親は、医師を目指すことに積極的に賛成してくれました。6歳年長の兄も結核の治療を受けながらの医学生でした。
私は本当は本が好きで文系がいいかなと思っていたのですが、担任の国語の教師が文学は医師になってからも親しめると言ってくれたのが有効な助言だったと思います。
 2年間の医進コースの後、1956年の医学部入学生は46名中女子7名でしたが、最初の女子入学からみると5年間では合計24名10%程度の人数でした。
 医学部は黄金町から歩いての通学なのでそのころまだ賑わっていた特殊飲食街いわゆる青線地帯を男子学生をエスコートして帰ったこともありました。産泊(産科実習)の深夜にこっそり女子学生二人で大桟橋へ港の様子を見に行って指導医を心配させたことも懐かしい思い出ですが、昭和30年代の横浜は米軍の施設と焼け残った昭和初期の面影が色濃く残っていてその魅力に取りつかれてしまいました。元町のフランス山(今はアメリカ山?)にあったフランス領事館へ仏語を習いにも行きました。
 医学部の校舎は浦舟町の旧三吉小学校で、現在は南区役所庁舎建設中のところです。入学時は女子トイレがなくて男女共用という今では考えられない構造でしたので教務に頼んで教員用を開放してもらったのですが、受け入れる大学側もまだ女子学生への配慮は充分ではなかったようです。
あまり女性を意識せずに過ごした学生時代ですが、医史学の講義は女子が出席すると、内容が面白くなくなるという不思議な現象があるとの男子の訴えで遠慮したことがあります。高名な先生でしたのでとても残念に思いました。
 国家試験前に1年のインターン研修は虎の門病院で受けました。折しも60年安保闘争の時で病院の周辺が騒然として怪我人が運び込まれたそんな年でしたが、北海道から九州までの21人(女性4人)のインターン生の繋がりは今も続いています。
1950年ころに新しくできた整形外科は手の外科、小児整形など境界領域を扱う女性にも適した科であるとの説明をされ、それではと考えて入局しました。しかし結婚、出産と女であることを余儀なくされる環境の変化に医師という仕事に十分対応しきれない、仕事を続ける限り育児や家庭生活にしわ寄せが行くという困難に直面しながら50年。今は5人の女孫がいます。
ヨーロッパの学会に出席したとき、いろいろな国の女性だけの食事会で子育ての話になり、子供は母親に育ててもらったというのでその子の子はあなたが育てるのかの質問にそれも母に育てさせるといって大笑いでした。子育てと仕事についてはいずれまた。

三杉先生