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すべては他力の風


町田 マキヨ先生

 “先生、ずっと続けることです。必ずできるようになりますよ”
 ~すべては他力の風~
<あれは医学部3年生の時のこと>
 実家の母がしょっちゅう四国から家事手伝いに来てくれていた。子供たちがまだ母親を必要とする時期であったから。その頼りの母が肛門出血を見たのだった。冗談半分だろ言うが、ぶらぶら生活してないで、医学部受けなさいと勧めてくれていた近くの外科のM先生から紹介されて、間門にある病院を訪れた。そこに高橋寛先生(現昭和大学藤が丘病院消化器内科教授)が、土曜ごとに大腸内視鏡検査に来てくださっていたのだった。先生のご実家の病院である。検査終了した母の最初の一言“マキちゃん、ひとっつも痛うなかったで。寝よるうちにすんだわ”と。その当時ポリクリと言って各科を2週間ずつ学生が回って実際の診療を見学していた時期だった。わが通う横浜市大ではその当時はまだまだ大腸は暗黒の臓器。たまたまガラス越しに垣間見えた大腸内視鏡検査は悲惨なものだった。若い女性が衆人環視の中でまるで婦人科診察を受けるような態勢で、スコープを突っ込まれているという感じだった。もちろん痛みで顔はゆがみ大きな声を発している。母がそんな検査を受けるなんて娘ながらに嫌だった。けれど病気には勝てない。心配しいしいついて行った病院での検査は、母校のそれとは天国と地獄の違いであった。
 私もそんな検査を将来できるようになりたいと何となく思ったものだった。もちろん卒業後もなかなかそういう理想の検査などのチャンスに恵まれるわけもなく、漫然と派遣先の三浦市立病院で一般内科をやっていた。
<医学部入学を志した日より約7年前のこと>
 私は夫の勤務先、日本鋼管からあてがわれた社宅に住んでいた。まだ子供は一人。真夏に海水浴から帰ってきた時社宅の右隣の奥さんがトイレで倒れて救急入院したことを知った。間もなく彼女は亡くなった。脳腫瘍だった。二人の小さなお子様を残して。間もなく一家は遠くへ引っ越しされたように思う。それからおよそ2年後、親しくしていた左隣の奥さんがお正月から風邪をひいたのよと言っておられたと思ったら間もなく県立がんセンターに入院された。お見舞いに行って、元気づけて差し上げたがやはり間もなく亡くなられた。急性白血病であった。その時には私も二人の子供の母親になっており、二人の小さな子供を残して逝ってしまうなんて、どんなにつらいことだったろうかと思うと同時に、自分もそうなるのではないかとまじめに心配した。そうなると毎日のように微熱が続いた。今でいうドクターショッピングを始めたが、どの医師も鼻の先でふふんと笑うだけ。ちょっと血液検査をしてくれるがなんでもないですと。そういう心配はしかしながら時間というものが解決してくれるらしく、それからはあまり体について考えることなく生活を満喫していたといえるだろう。
 不幸な電話はそれから2年後の夕方かかってきた。東京大学の女子寮で相部屋だった(二人部屋)一番仲良くしていたSさん、彼女は在学中からバスケ部で、これ以上ないと考えられるほど丈夫な人だった。その方が亡くなられましたと。思わず、事故ですかご病気ですかと聞いてしまった。腰痛症状から始まったスキルスで、痛みを感じてから死まではわずか2カ月だったらしい。
<医者になりなさい>
 もはや、私の不安は自分ではコントロールできなくなった。彼女を気の毒とか思うよりも恥ずかしながら自分が二人の子供を残して死ぬかも知れないといういわれのない恐怖心にとらわれてしまったのだ。すぐ近くにできていたプレハブのバプテスト教会に飛び込んだ。間もなく受洗。それでも完全に気持ちが休まる日はなかった。半ばやけ気味な気持ちで生活をエンジョイするしかなく、仲良くなった牧師さんの奥さんと一緒にテニスをしたりして、遊んで暮らした。不安を誤魔化すためだったかもしれない。そこでもともとスポーツなんて不得意だった私はボールを拾おうと後ろへ下がった瞬間に左のアキレス腱を切ってしまった。完全断裂だったらしい。近くの外科に入院、手術を受けたがその時の先生が前からちょいちょい医学部受ければいいよと進めてくれていたM先生だった。”あのね、つまらん体の心配なんかしてないで、あなたまだ若い。大丈夫だから医者になりなさい”と強力に進めてくださったが、まさか小さな子供二人子育て中の私にまじめに言ってくださってるとは思わなかった。けれど、両隣の若い主婦と同じ部屋の同級生が次々と命を失っていったという事実は私の中にやはり生命に対する強い恐れの気持ちを抱かせずにはいなかった。何かに熱中してないと気持ちが落ち着かないのだ。当面の目標を受験に向けた。社宅から通えるお金のかからない大学は横浜市大だけ。
翌年、私はその外科病院のお嬢さんと一緒に一年生となったのだった。
<M先生から電話が来た>
 話は前後するが、母の感想を聞いてから理想の大腸内視鏡にあこがれていた私にそのM先生から電話が来た。”あのね、藤田力也(その当時、今をときめく昭和大学藤が丘病院消化器内科の看板教授)に、電話しといたからね、知り合いの医者が大腸やりたいって言ってるからねって頼んどいた。来週新谷セミナーが藤が丘であるらしいから、いってらっしゃい””へ、ほ、ほんとですかぁ、”そこまで後押しされたら引き下がれるものじゃない。決心してセミナーに参加。6万円だった。実に簡単そうに挿入していく新谷教授。藤田先生は私が端っこの席なのを案じてくださって”こちらの方に座りなさい、よく見えるようにね”とおっしゃってくださった。涙が出るほどうれしかった。
 それからのことだ、毎週木曜日の研究日に、藤が丘に通うようになって生涯の師匠佐竹儀治先生の手ほどきを受けることになったのは。先生は実に心の広い方で、この人は昭和卒業の人だから育てるが他大学の人たちは見てなさいというなどという感じではなかった。教育に熱心だったということではないかと思う。毎週行くと”先生、どうでしたか今週はご自分の施設ではうまくいきましたか”と聞いてくださる。私が色よい返事をしないと、”先生、続けることです、何があっても続けなさい、必ずできるようになりますよ”と励ましてくださった。その後先生が藤が丘を出られて田坂記念クリニックに院長として行かれるようになられた後、”もう少し待ってなさい、僕が呼んであげるからね。”と言ってくださり、田坂の常勤にさせていただいてから、本格的な大腸内視鏡の修行が始まったのだ。一人で午前中に胃内視鏡20例、午後に大腸内視鏡10例という厳しい日が続いた。その上に学会発表や商業誌ではあるが論文も書かせてくださった。
 現在町田内視鏡クリニックを開いてからも陰に日向にと応援してくださる。
<他力の風>
 考えてみると子持ちの主婦でありながら医者になったのも、大腸内視鏡で、独り立ちできるようになったのもすべては他力の風が吹いた結果ではないかと思うのである。これから先いつまで続けられるかわからないが、女性のがん死亡率の第1位は大腸なのだ。これからもしっかりやらなければと思う日々ではある。