会員専用ページ会員専用ページのご案内
文字の大きさ

開業医としての50年


川田 和子 先生(現在)

 時の流れは早いもので、横浜の地に内科・小児科の医院を開設して、平成28年11月で早50年を迎えます。
 私が幼い頃に太平洋戦争が勃発し、長野県上田市への疎開、そして終戦へと周囲の環境が目紛しく変化していく中で、心と体が健康である事の重要性を深く感じるようになりました。
 私は4人兄弟の長女で、下に3人の弟がおりました。私を含め3人が医学の道へ進み、1人が薬学部へ進学しました。東京都立大森高等学校を卒業後、成蹊大学医学部進学コースを経て東京女子医科大学へ進学しました。学生当時は父親の業務の関係で川崎市内に居住し、大学まで片道1時間以上の道のりを通っておりました。大学卒業後、小児科学初代教授の磯田仙三郎先生(大正11年3月東京帝国大学医学部卒業)の下で小児科臨床の研鑽を積み、大学院博士課程修了後、間もなく横浜への転居を機に昭和41年開業医へ転身しました。
横浜市南区は市内有数の住宅地であり、開設した医院は住宅兼用として永田町の丘の上に建設しました。


医院の2階に私が家族とともに住み、医院に隣接する住宅に両親が住む環境の中で診療に挑みました。開院当初は主に小児科診療を展開しておりましたが、次第に小さな患者さんの親御さんが通院して頂けるようになり、気付くとその親御さんのご両親が待合室 にいるという調子で、医院はだんだんと賑やかになりました。当時電子カルテな どもなく、診療の順番は早いもの順。だからといって住宅街の中の医院ゆえ、患 者さんの路上待機は近隣住民へご迷惑をかけることになる。さてさて、どうした ものか・・・、と悩んでいた時に
「玄関先に予約台帳をぶらさげておいたらどうだね?夜間来られる人の為に小さな懐中電灯も忘れずに」と在りし日の父が一言つぶやいてくれた事で、善は急げと即実行。これが功を奏し、診療の順番を巡るトラブルは回避することができ、待ち時間の解消に繋がりました。やはり親の言う事は聞くもんだ、などと納得しながら孤軍奮闘するうちに時は流れ、開業当初の小さな患者さんが、そこそこ大きい子供を連れて受診するようになりました。つい最近では、
「院長先生、全然変わりませんねえ」などと歯が浮くような台詞を残して帰る付き合いの長い患者さんもいますが、お互い相当変わったはずです。お互いに都合の悪いことは聞えないふりをする「芸」ができるようになったのですから・・・。
 思えば、代診医に診療を託した土曜日に発熱、痙攣、意識混濁を生じた1歳女児が親御さんによって担ぎ込まれ、緊急連絡を受けて医院へ戻ったことがありました。麻疹脳炎を疑い、代診医とともに速やかに初療を講じて、救急搬送しました。普段平穏な住宅街に救急車のサイレンが響き、茫然自失の母親に喝を入れ、救急車へ押し込んだ事を覚えています。ワクチン接種が未整備であった頃の一例でしたが、幸い後にも先にも救急車を要請したのはこの一例だけでした。後日、母親が笑顔で医院を訪れたときに凝縮された時間を深く心に感じました。
 時は流れ、幼かった長女、長男ともに医学部へ進学し、長女は麻酔科医として、長男は糖尿病専門医として巣立って行きました。現在、川田医院は長男が週1回糖尿病外来を担当し、長男が奉職した大学から非常勤医師に週2回一般内科外来を担当してもらっています。私も現役院長として負けじと週2日、朝から夜まで外来診療を続けています。また、自宅から医院まで自家用車を運転し、約20分の道程を、ボサノバを聴きながら、ひとりの時間を楽しんでいます。年齢を理由に運転を控えたら、などと言われる事もありますが、事故を起こさない様に一層慎重な運転を心がけるようになりました。さすがに縦列駐車や狭いスペースへの後進駐車はきつく感じています。先日も、とある駐車場への後進駐車で四苦八苦してしまい、気付いたら公道上に数台の渋滞が・・・。通りすがりの巡査に満面の微笑みを送ってみたところ、渋滞車輛を交通整理して下さり、お蔭様で無事駐車完了。交通警官にも気の利いた方がいるものね、と気持ち良い一日でした。これも、一つ間違えば「運転免許証返納のすゝめ」に繋がる恐れありと判断し、家族の誰も知りません。私だけの秘密。 診療を終えた後に疲れを感じる時もありますが、辞めようなどとは一度も考えたことがありません。私の外来を楽しみに来院する患者さんがいる限り、まだまだ頑張るつもりです。

  
スタッフ:左から2人目は糖尿病専門医の長男(副院長)/ 現在の川田医院の外観