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「88才で現役の先生」が目標!


上野医院 上野 洋子先生
(向かって左)

 私は、現在旭区鶴ヶ峰で開業をして20年目になります。只今83歳の医師で、女医になろうと思ったのは今から70年前のことです。
何故って?子供の時は女の子ですから、お人形のベッテさんを抱いて遊ぶことが多かったことはお判りいただけるでしょう。
 そのお人形さんと長いこと一緒にいたので、縫ってあるところがほころびて、左下肢がとれてしまいました。私は、すぐ針に糸を通して、お裁縫のように下肢を縫いつけて、みんなに見てもらおうと喜んで歩き廻りました。
父に見せたら下肢の前後を間違えて縫いつけたのを見つかり、父も医者でしたから、お人形だって人と同じ、膝の前になる部分に「こ」しるしがあるのを、裏側にしたと叱られたのを今でも忘れません。すぐに付け直しましたが、現在の医療でも間違いは、診断にしても、言葉づかいにでも、勿論あってはならないことです。
 その頃、麻疹の後に肺炎から膿胸になり、一学期休学したことがあります。
膿胸になった頃は、今の様に抗生剤も胸のレントゲンもない頃で、打診のみで右の背部に注射器で針を刺して吸引したのを見せてもらいました。翌日には膿ぼん一杯の膿痰を吐き、その後熱も下がり快復して、その時の先生、政野梅吉先生のお名前を忘れたことはありません。
その後は元気になり小学5年生、6年生の2回の遠足では、神奈川の浦島小学校から品川の泉岳寺まで歩き、帰りは電車で帰ることが出来ました。
 太平洋戦争となり、女学校に進学し昭和23年大学入学となりました。
 終戦後は現在の中学、高校に改正されて変化の多い時でしたが、大学時代は病理教室で解剖の研修、組織標本づくりをして過ごし、卒業後はインターンの後、医師国家試験。外科医局はあまり女性の医師は居りませんでしたが、入局し、2年在局しました。その後、結婚もし、30才までに3人子どもを出産しましたが、その5年間は普通のお母さんとして子育てに時間を費やしました。その頃は保育園もなく、ぴったり医業は休んでいましたが、そのあと初めは1日おきの出勤で4年間過ごし、産業医、従業員の多い会社の会社内診療所で常勤として25年勤務しました。
会社は厚木に本社があり、春の健診時は本社、秋には九州の大分、東北には秋田の横手、福島のいわき、栃木にも工場の健康診断と、地域の先生方にも御世話になりました。
 年齢と共に大変になって、務めは辞め開業と云う形になり、今まで勤務していた会社名が入った鏡を診療所の玄関に飾ったりしているうちに、自分は同じ会社居るとか、自分の息子が勤めている等、私の今までの働きが見られて嬉しく思うことが多くなりました。また患者さんの中には、御自分の健康状態についての意識が強くなって、健診の結果を持参して相談されることが時々あります。説明するときには、病的であればその話もして治療することに納得され、私の方が“ホッ”とします。これまで、戦時、大学、子育て、女医と、いつの間にか60年が過ぎてしまいました。
現在は終活に入っていますが「88才で現役の先生」が目標で頑張っています。
今回はこにて失礼いたします。

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