会員専用ページ会員専用ページのご案内
文字の大きさ

第1回 医学部卒業の頃

新海先生の写真

松本市での6年間の学業を終え45年経ちました。
1学年1クラスのみ、総勢60名前後で、各学年、女性は1クラスに0~3名、多くて4名といった所でした。私達の入学年は受験科目の影響か入学時は10名、卒業時は8名と賑やかでした。
在学中の定期試験は科目数も多く、範囲も広いので、1回でパスするのは難しく、たまたま私が1回で全科目をパスしたときには、「低空飛行の名人」とからかわれたものです。人数が少なく、お互いの実力がよく分かっているので、ぎりぎりの点数で私がパスしたんだろうとクラスメートたちは疑いもしなかったのです。

それなりに強い意志を持って入学し、入学後も勉強に励むのは当然のことでした。卒後、結婚、出産をものともせず勤務医、開業医として仕事を続けるのも普通のことでした。「ものともせず」というのは、簡単に問題をクリアしたということではなく、どんな難題も乗り越えて仕事を続けようとする強い姿勢です。
当時は保育園なども今のように整っておらず、先輩たちは、大学構内に保育所を作るために大変な苦労をしたと聞いてます。

新海先生の写真

女性医師達の中で最も驚かされたのは大学病院内科勤務で子だくさんの先輩でした。
5名のお子さんをワゴン車に乗せ、一か所での託児は無理なので、通勤の行き帰り、あちこちにお子さんを集配(!)なさって頑張ってました。
仕事への情熱が漲ってたんだと思います。同僚男性医師達も快く(?)協力を惜しまなかったことでしょうが、5人ゾロゾロ引き連れているのを見て「感情の赴くままじゃ大変」と研究班班長(男性)に笑われてしまったとか、現在だったらセクハラだと問題になるところでしょうね。

新海先生の写真

夜遅くまで大学病院や医局で仕事するのが日常的なことでしたので、ご近所に託児して女性でも9時過ぎまで仕事してました。
こうした女性医師の存在は、他の育児中の人にとっては辛いもので、身軽な私に、「○○先生が遅くまで仕事しているから帰れないわ」とこぼされたりしました。
その私は卒業したてで、受持ち患者さんも少なく、おまけに当時、従来の医局制度に反対する青年医師連合の運動中(ものものしくも青医連闘争と称してました)でもあったので、朝はぎりぎり間に合うように出勤、夕は仕事が終わるとさっさと帰るという風でした。オーベン(指導医)に「一番遅く来て、一番早く帰る」と皮肉たっぷりに笑われたものです。
そのオーベンは神奈川県立こども医療センター勤務となり、私も戸塚で開業後、またまた教わる事が多く、お会いすると本当に懐かしく楽しいひとときが過ごせます。

最近は、授かり婚など珍しくもなくなりましたが、上級生が授かり婚で学生結婚したのは衝撃的なことでした。同級生同士でしたが、出産育児の為、奥方は一年遅れで卒業、仕事もしっかり続け、4児を育てながら大学教授まで勤めました。
先日しばらくぶりにお会いしましたが、上品で優しい笑顔で私のほうに歩んでいらした姿は、70代半ばの現在も学生時代の美しさのままでした。
1学年の人数も少なく在学期間も長かったため、同学年のみでなく、同窓生は何年振りかで会っても、親しさがこみ上げ嬉しいものです。年々、永遠の旅に出かける人が増えるのは仕方がないことですが、育児に奮闘しながら、仕事にも情熱を注いだ先輩たちを見習って、私もこの仕事を続けようと思います。
小児科のみならず他科の医師にとっても、母親として成長しながら、医師を続けることは仕事上もプラスになることでしょう。困難があっても、仕事にも育児にも前向きに取り組むことでもたらされるものは計りしれません。

松本城ライトアップ
松本城ライトアップ

2014年5月 戸塚区 新海 行子(小児科)